――宇宙は広いと誰もが知っている。この広い宇宙を縦横無尽に駆ける男がいた…人は彼のことをこう呼んだ――
薄暗い部屋の中、不意に男はキーボードを叩く手を止めた。
そして、一呼吸を置き、
「流離いの商人と…」
と呟いた。
決まったぜ…と本人はかっこつけているつもりだろうが、口元がにやけているせいで全て台無しになっていた。
「これいいな。よし、今度のキャッチコピーはこれでいくか」
なにやら自分一人で満足しているようだが傍から見ればさっぱりもって意味不明である。
「いや、待てよ。もう少し考えたらもっといいのが浮かぶかもしれんな」
その後も男は自室のコンソールを叩きながら独り言を呟き続けた。はっきり言って危ない人に見えなくもない。
「…やっぱシンプルにさっきのでいくか」
悩んだ末にどうやら最初に決めたやつにしたようだ。本人はうんうんと頭を上下させ一人満足に浸っている。
この危なそうな男の名はトツカ・H。自称流離いの商人である。
自称の通り名が指し示すとおりフリーの商人で、個人経営のわりに品揃えが豊富なことでちょっと有名だった。生活雑貨から趣向品、はたまた武器・弾薬まで取り扱っている。
個人経営でこれだけの商品の仕入れるのは至難の業だと言えるがこのトツカという男、見かけによらず顔が広くいくつもの仕入れルートを持っていた。それに加えて商品の値段はどれもリーズナブルでお求め安い価格になっているため世の奥様方は大喜びである。
この幅広い商品と確立された仕入れルートのおかげでお得意様も少なからずいる。その証拠につい先程までそのお得意様相手に物資の売買をしていた。
おかげで懐がいい具合に膨らんだのは言うまでもない。
「よーし、今日の収入はなかなかよかったからな。久々に趣味にでもつぎ込むとしますかな」
トツカはなにやらいやらしい笑みを浮かべている。
「そうと決まれば」
思い立ったたらすぐに行動するのがトツカという男であった。
トツカはすぐさま部屋を抜け出すとブリッジへと向かって走り出した。
ものの数分と掛からずにブリッジ前に到着したトツカは様子を窺うように恐る恐るブリッジの中を覗き込んだ。
しめしめ、ちょうどいい具合にブリッジには誰もいない。
素早くブリッジに入るその姿は盗人以外の何者でもない。
「さてと…」
ブリッジに着くなり、トツカはブリッジ中央に構える艦長席にどしりと座ると手すりについているコンソールを叩いた。するとメインモニターに何やら名簿のようなものが映し出された。
「とりあえず、あいつとあいつを呼ぶだろ。でも待てよ…前回あいつにいいように負けたからな」
なにやら考えこむトツカ。そして、何を思ったのかトツカは不適な笑みを浮かべた。
「よーし、今日はあいつにリベンジしてやる」
そう言うとトツカは早速通信回線を開いたのだった。
モニターに向かって頭を垂れている一人の男の姿があった。言うまでもなくトツカである。
「だあーっ! また負けた」
頭を抱えて唸る姿はもはや滑稽にしか見えない。
『へっへ、悪いねぇいつも』
勝ち誇った顔がさらにトツカの神経を逆なでする。何を言っても負け惜しみになってしまうが言わないよりかはマシ。
「うるせぇー今日は調子が悪かったんだよ」
などと言い訳するのもこれで何度目だったろう。これが初めてなような気もするが二回目以降だったような気もする。そんな些細なことを覚えているほどトツカは暇ではない。決して負けたという事実を記憶から抹消しているわけではない…はずである。
だが真実はというと…
『今日は≠カゃなくて、今日も≠フ間違いだろ? その言い訳もう十回目だぜ? いい加減違う言い訳でも考えたらどうだ?』
「ぐっ…」
返す言葉が見当たらない。
『んじゃ遠慮なく貰ってくぜ』
「あぁ…」
遠退いていくマイマネーを名残惜しげに見つめ続けるトツカ。気がつけばさっきまでたんまりあったお財布の中身が今ではすっからかんである。
『もうこんな時間か。んじゃまた呼んでくれや』
「お前なんかもう呼ぶか!」
とか言いつつ、こいつを何度誘ったことか。
『楽しみにしてるからな』
そう言い残し勝者は去っていく中、一人取り残された敗者はというと…
「あん時Aさえきてれば間違いなく勝てたはずなんだ。クソッ、次は絶対に負けん」
などと言い訳やらなんやらを毒づいていた。
「次は覚えてろよ…今までの負け分、きっちりと取り返してやるからな」
今さっき負けたばかりだというのにトツカの闘志は折れるところを知らなかった。むしろ今すぐにでもリベンジしたい気分だった。
だが手持ちのお金は綺麗さっぱりなくなってしまった。
「ちくしょう、胸くそ悪い」
手持ち金もなく、このまま負けたままというのも気分が悪い。ならば何か私物を担保にしてもう一戦してやろうかと思ったのもつかの間のことだった。
「お父さん……」
地獄の底から響いてきそうなおどろおどろしい声が後ろから聞こえてきた。
全身から一瞬にして血の気が失せていく。身動きが取れない。まるで金縛りにでもあったかのようである。
振り向いてはいけないと直感が叫んでいる。
「お、と、う、さ、ん…!」
さっきのは単なる脅しで今度のやつには殺意が込められている模様。今すぐ振り向かないと命はない気がしてきた。いや、むしろもうないかもしれない。
トツカは恐怖で硬直しきった首を無理矢理動かし後ろに振り返るとそこには可愛くも恐ろしい般若が立っていた。
般若は一見して可愛らしい少女の姿をしている。その少女の姿をした般若は赤みがかった茶色いセミロングの髪を後ろ頭の高いところで結わえたポニーテールが印象的だったが、それ以上に目を引いたのが歳のわりに大きく成長してしまわれた二つの果実であった。
トツカの全身から冷や汗がにじみ出てきた。一番会ってはいけないタイミングに絶対に見つかりたくはない相手に出会ってしまったのだ、当然である。
「ア、アルト…どうしてここに」
トツカの後ろに立っていた般若の正体…それは可愛い愛娘―アルト・Hであった。
「どうしてでしょう?」
アルトは笑顔を浮かべている。恐ろしいほど笑顔なのはいいのだが、なぜか額には青筋が浮かんでいるのは置いておくことにしよう。はっきり言わなくても怖い。今すぐここから逃げてしまいたい気分である。
だというのにも関わらず、視線がある一点に向かってしまうのは男としての性だろうか。アルトが腕を組んで胸を張っているせいでそこにあるものが大きく主張している。
母さん、娘は健やかに育っているよ…などと現実逃避している場合ではない。
「これで何十回目だと思ってんの!」
その勢いは決壊したダムから流れ出る濁流さながら、アルトの荒々しい怒声がトツカを襲った。
一瞬、その勢いに飲み込まれそうになる。だがここで言い訳の一つでも言わなければ父親としての威厳が地に落ちることになる。もう落ちているかもしれないが。
「し、しかしなぁ…煙草はやめられてもこればっかりはなぁ…」
これでも精一杯の譲歩をしているつもりだ。何せ煙草はあれ以来一切やっていないのだからこれくらいは許してくれても…、と考えるだけ無駄な話である。
もとより言い訳したところであの口うるさいアルトが素直に『分かった。許してあげる』などと言うはずもないことくらい十五年間父親をしてきたトツカが知らないわけがない。
それをわかっていながらもさりげなく言い訳をしてみたは淡い期待を抱いてみたのだが結果は変わるはずもなかった。
「もう! だから博打はやめてって言ってるでしょ!?」
「す、すまん…」
それを言われては頭が上がらない。何せ家族―主にアルト―から厳しく言われているのにも関わらずトツカは内緒で博打をした。一度でいいから部の悪い賭けをして一発大逆転してみたいのだ。
「そう思うなら辞めてよね。はぁ…これで今月もギリギリじゃない」
ここまで完全に呆れ返っている娘の姿を見ていると親として無性に胸が痛む。
母さん、娘は強く育っているよ…と無理やり自分に納得させる。そうでもしないと父親としてやっていけそうもない。
「あら、またやってるの?」
ちょうどそんなとき、どこからともなく緊張感のカケラもない声が聞こえてきた。
後ろを振り返るといつの間にそこにいたのか、入り口のところに黒髪の艶やかなストレートロングに狐の耳が垂れたような癖毛が妙に特徴的な女性が立っていた。
「あ、お姉ちゃん!」
「お、ソプラノ」
ソプラノと呼ばれた女性は大きい丸い瞳が愛らしく、雰囲気もどことなく柔らかく、可愛らしいというのが一番適切であった。見様によってはちょっと抜けているようにも見えなくもない。
そんな彼女こそトツカのもう一人の愛娘で長女のソプラノ・Hであった。
「あのね、聞いてよお姉ちゃん。実はね…」
アルトはことの次第を姉に話した。それを聞いた姉ソプラノは、
「あらあらまぁ♪」
と分かっているのか分かっていないのか判断に困る反応を返してきた。
「まぁ♪ じゃないないわよ!? またお父さんが約束破ったのよ!!?」
いきり立つアルトをソプラノは黙って見つめていた。
「うーん、そうねぇ…」
今まで黙ってアルトの話しを聞いていたソプラノが不意に微笑みを浮かべながら口を開いた。
「アルトも許してあげて。軽博打はお父さんの唯一の趣味なんだし、ね?」
眩しいほどの微笑みを浮かべながら妹を諭そうとするその姿は神々しい女神のように見えてくる。
「ソプラノ…」
そのソプラノのやさしさがトツカの胸にジーンきた。やばい、今のにはちょっとばかし涙腺が緩んだぞ。
それに納得がいかないのはアルトで。
「だからお姉ちゃんは甘いって言うの! お父さんの博打のせいで何回赤字の危機に見舞われたのか分かってる!?」
一回や二回ではすまない。それこそ数えるのも面倒なくらい、赤字という名の危機がH家を襲っていた。
だが、そんなことを聞いたところでソプラノの微笑みが消えることはなかった。
「赤字くらい大丈夫よ。そりゃお姉ちゃんだって倒産しちゃうとなれば無理にでも止めるけど…一ヶ月や二ヶ月赤字になるくらいどうってことないわよ」
平然としている姉にアルトは怒り半分、呆れ半分といった表情を浮かべた。
「だ・か・ら、甘いって言うの! いい? その赤字が何ヶ月も続けばどうなると思う?!」
言わなくてもその先に待っているのは倒産という名の破滅だ。
「いやなぁ、父さんも悪いとは思ってる」
思ってはいるのだが…一発大逆転してみたいじゃないか。
「だが、父さんだってたまぁに勝っては家計の足しにしてるだろ」
そう。トツカもいつも負けっぱなしというわけではないのである。ごく稀に、奇跡としか思えない確立でトツカは確かに勝つことがある。そんな日は儲けたお金でパーッと騒ぎたい気分になるのだがその衝動をグッと堪え、家計の足しにと勝ち取った掛け金をそっくりそのままアルトに渡していた。
そういうとき、アルトは受け取るときこそ訝しげな目をしてくるものの、やがて諦めたようにため息をつき、黙ってそのお金を受け取るのだ。
もしかすると、なんだかんだ言っていても実はアルトも本気でやめさせようとは思っていないのかもしれない。淡い希望だが。
だが、世の中そんなに甘くはない。
「それ…何年前の話してるのよ」
「うッ…」
痛いところを突かれた。確か前回勝ったのは…かれこれ三年以上前のことだ。
「それに、そんな運だよりの人生なんて私は絶ッ対に嫌!」
アルトに全力で否定されてしまった。何もそこまで否定しなくてもいいだろう。
「私は堅実にこつこつとやっていければそれでいいの」
どうすればトツカのような父親からアルトのような娘が育つのか。反面教師というものだろうか。トツカがお金にズボラな分、アルトが堅実にきっちりとなるのはさも当然のように思えた。
おかげさまでアルトは地道に働き、安定した収入と生活を望むようになっていた。それが悪いとはいわない。むしろ将来のことを考えるとそれが一番である。だが、アルトはまだ十五歳だ。普通十五歳といえばまだまだ遊び盛りなものだというのにアルトは特にそういうこともせず、家業を支えてくれている。それがありがたい反面、そのせいでアルトを束縛しているのではないかと不安に思うこともあるわけで。
「なぁ、アルト。やっちまったもんはしょうがないと思わないか」
トツカは今更だが開き直ってアルトの説得に掛かった。ないものをとやかく言ったところでもうすでに後の祭りである。それこそ諦めてもらうしかないと思うのだが…
「思わない」
「さいですか…」
ばっさりと切り捨てられた。
「まぁまぁ二人とも」
そこへ助け舟ばかりにソプラノが割って入ってきた。
「アルト、少しカリカリしすぎ」
「ぅ…」
自覚があるのか、アルトは押し黙った。
「お父さん…」
「な、なんだ?」
珍しく真剣な表情でトツカを見つめるソプラノ。まさかソプラノまでも軽博打をやめろと言うのでないのだろうか、などという不安が押し寄せてくる。
だが、
「もう少し可愛い言い方してみたら? もしかしたらアルトも考え直すかも♪」
「「はぁ!?」」
さすがは我が娘…変な方向に期待を裏切ってくれる。
笑顔のソプラノを他所に二人の視線が不意に合った。どうしていいかわからず、トツカは苦笑じみた笑顔を浮かべた。するとアルトも同じ表情を浮かべたが、ハッとしたようにすぐにさっきまでの不機嫌な表情に戻ってしまった。
「直さない。絶対に考え直さない」
アルトの無慈悲な言葉が矢のように飛んでくる。
母さん…娘たちは元気に育っているよ。などと妄想にふけっている場合ではない。
「む……………」
右を向けば怒れる般若が、左を向けば何を考えているのかまるで分からない女神様が立っている。
考えること数十秒、思いつく限りの打開策を考えてみるもののどれもアルトに一蹴されてしまうのが目に見えていた。やはり、アレしかないのだろうか。もうこうなれば精一杯の可愛さでアルトをKOすることくらいしか助かる方法が見つからない。トツカは玉砕覚悟で自分の思いつく可愛い言い方を探した。
「…や……」
「嫌?」
トツカの口から漏れた言葉を嫌と勘違いしたアルトは怪訝そうにトツカを睨んだ。おかげでさっきよりもさらに凄みが増したように思える。
だが、ここで怯むわけにはいかない。トツカはそれに負けずに精一杯の可愛さで勝負に出た。
「や……やっちゃったZE☆」
「はぁ!?」
「まぁ♪」
悩んだ末の結果がこれだった。
トツカは親指を立てて不気味にニィと笑っていた。はっきり言って無気味にしか見えない。だが、これでも精一杯の可愛さを出してみたつもりである。
恐る恐る二人の顔を窺う。
「う…」
明らかにアルトは不満丸出しな顔をしている。ソプラノはというと目を丸くして驚いているようだ。
やっぱり駄目だったか。
しばし無言な時が流れる。この静寂が辛い。やっぱり止めておけばと後悔してくるトツカであった。
「お父さん」
そんな中最初に言葉を投げかけたのはなんとソプラノだった。
「む?」
何を言われるのか不安だけが膨らんでいく中、
「惜しい♪」
などという明らかに場違いな解答が飛んできた。
「………お、おう!」
なんだかよく分からないが多分応援されているのだろうとトツカは勝手に解釈した。となればそれに答えるのが父親としての勤めだろうと勝手に思い込むことにした。でないと心が折れてしまいそうだ。
「アルト…!」
「な、何よ…気合い入れてもダメなんだからね」
急に気合を入れだした父親によく分からない威圧感を感じ、アルトは僅かに身を引いた。
正攻法では無理なことは先刻承知。だからこそ、トツカは思い切って再びジョーカーを切った。
「ごめんDA☆ZE☆ 許して欲しいんDA☆ZE☆」
トツカは力強く立てた親指と気持ち悪いほどの笑顔で再びアルトを説得(?) に掛かった。
「はぁ!? ごめんだぜって何よ!? それ以前に許して欲しいんだぜって無理あるから!」
素早く的確な突っ込みにさすがのトツカも一瞬怯む。確かに許して欲しいんDA☆ZE☆はやり過ぎたと反省する。だがしかし、ここでくじけてしまっては一発大逆転の夢が奪われることになる。それだけはなんとしても阻止しなくてはいけない。
「やっちゃったZE☆ ごめんDA☆ZE☆ 許して欲しいんDA☆ZE☆」
休む間もなくトツカは抵抗を再開した。
「あーもううるさい!」
「やっちゃったZE☆」
懲りずに何度も言い続ける。
「やっちゃったZE☆」
「……」
「ごめんDA☆ZE☆」
「…あのさ、気に入ったのそれ?」
「気に入ったんDA☆ZE☆ 取らないでDA☆ZE☆」
「取らないわよ、そんなの」
すでにアルトは怒りを通しこして憐れみすら感じていた。
「……はぁ」
もう何を言っても無駄だと悟ったのか、アルトは諦め混じりに盛大にため息をついた。
「…わかった、わかったわよ! …許してあげる。…けど次はないからね」
そう言うとアルトはフンッとそっぽを向いた。結局先に折れたのはアルトのほうだった。
「もう負けないでよ」
アルトは毎回そう言っては最後に許してくれる。それがアルトの優しさということをトツカは知っていた。
「ありがとうDA☆ZE☆」
しばらく言い続けたせいで本当に口癖になりつつあったのは不覚だった。
これで何もかもがうまく収まったかに見えたが…
「そろそろいいですか?」
「うぉっ!?」
不意にブリッジの中から三人以外の声が聞こえてきた。
おかしい。今ここにいるのはトツカ、ソプラノ、アルトの三人だけのはずである。何よりも最初にブリッジに入ったトツカが誰もいなかったことを確認している。
三人は揃って声のしてきた方に恐る恐る目をやるとそこには艦長席からはちょうど死角になっているオペレーター席があった。さらに近づいていくとそこにはにこやかな表情でオペレーター席に座っている青年の姿があった。
「なんだ…おめぇかよ」
青年の姿を見た三人は一斉に安堵の声を上げた。
張り詰めていた緊張が解かれ、その場に張り詰めていた空気が解けていく。それと同時に疲れが押し寄せてきた。
「はい?」
青年が何のことか分からない様子で首をかしげた。
「いるならいるって一声かけやがれ。驚いただろうが」
「すみません。トツカさんのせっかくの趣味の時間を邪魔したくなくて」
青年は爽やかな笑顔を浮かべながら正直に答えた。青年が嘘を吐いているようには見えない。
「む…」
トツカはいつも一人になったのを見計らって博打をやる。単に家族に隠れてやっているということもあるが、一人でなければ集中できないというのがトツカの持論だった。
そのことを青年は知っていた。だからこそ気遣って声を掛けなかったという。
「…ったく」
そんなことを言われてしまってはこれ以上何も言えないではないか。
「しょうがねぇな」
青年の気遣いのおかげで軽博打ができたのだから文句など言えない。これを期に今後も黙って見逃してくれるとありがたいなと思ったのもつかの間、
「何がしょうがないのかな…?」
アルトの鋭い眼光がトツカを射抜いた。
「いや! なんでもない」
さっき約束したばかりだというのにもはや忘れそうになっていた。
「もう! ジュビアさんもなんで黙ってたんですか!?」
「たまの楽しみくらい邪魔しちゃ悪いだろ」
「ジュビアさんもお姉ちゃんと一緒で甘いんだから」
むくれ顔のアルトにジュビアと呼ばれた青年ははにかみながら笑顔を返した。
「そこがジュビアさんのいいところなのよ」
にこやかに微笑むソプラノ。
「そんなことない。買いかぶりすぎだよ、それは」
「そうかしら?」
「そうだよ」
微笑みあう二人の間に柔らかな空気が流れる。
「ハイハイ、そこまで。これ以上やってるとお父さんがキレかねない」
見ればトツカの口元がヒクついている。しかも体も小刻みに震えている。やはり父親としては黙っていられない問題であるらしい。
「「?」」
それを分かっていない二人はある意味凄いのかもしれない。
「…ったく」
最近、年頃の娘を持つ父親の気持ちがよく分かる気がする。まさか愛娘を取られる気持ちがこんなに悔しいとは思ってもみなかった。だが、それも当の本人たちが気づいていないのではどうしようもない。
「こんなことになるって知ってたら、あの時雇うなんて言わなかったんだがな」
ため息混じりにそんなことを言う。もちろん、本気でそんなことを思っているわけではない。だが、こうして一緒に生活をしているのだから嫌味の一つくらい言ってもいいはずだ。
あの日…この青年を雇うと決めたあの時にはまさかこんなこと思うようになるとは露にも思っていなかったのだから。