今から遡ること七年前。病弱だった妻ティナが亡くなってちょうど一年が経った頃でもあった。

今から七年前といえば、まだ地球・火星間での争いが激しかった頃である。

トツカは今と同じくフリーの商人をしており、その頃はまだ人一人が生活するのがやっとなくらいしか稼げていなかった。もちろん、まだ少女という年頃のソプラノと小さかったアルトを養うためには普通の仕事の他にそれなりにやばい仕事もこなさなければいけなかった。

やばい仕事というのは言ってしまえば破壊工作への協力であった。

お金さえもらえれば地球だろうが火星だろうが関係なく破壊工作の手伝いをした。要領は簡単であった。商人や配達業者として近づき中へ侵入した後、それと分からないように工作を仕掛ける。単純な手ではあるが技術が進歩したこの世の中、古典的なものほど効果があった。技術が発展したおかげで人は自身の目よりも目の前のデータを信じるようになっていった。だからこそそこに付け入る隙があったのである。各種データ、センサー網さえ掻い潜れればその先は実に簡単だった。

その日はちょうどそんな危険な仕事を終えた後だった。この日も子どもたちをコロニーにおいて一人で仕事に向かい、なんとか無事に仕事が済んだことに安堵していた。

仕事の内容が内容なだけに子どもたちには黙っていた。こんな汚れ仕事を引き受けているなど子どもたちに言えるわけがなかった。

「アルトはともかくソプラノはな…」

知らず知らずのうちにそんなことを呟いていた。

母親が亡くなってもう一年。この一年、ソプラノは必死に亡くなった母親の代わりになろうとあれこれ頑張ってきたのをトツカは知っていた。

ソプラノは十五歳だというのにまだ小さいアルトの面倒も進んで見てくれるし、炊事洗濯の家事一切をこなしてくれていた。家事がまったくできないトツカにとってありがたい限りであった。

普段のソプラノはどこか抜けていてよくドジを踏む娘なのだが、歳のわりに勘が鋭く大抵の隠し事はすぐにばれてしまった。母親のティナも勘は鋭かったがソプラノは母親譲りの勘の良さに加えて洞察力もあった。

それのせいでソプラノはなんとなくだがトツカのやっていることに気がついているような気がした。それでもソプラノは何も言わずにいつも『いってらっしゃい』と送り出してくれる。

「…辛いな」

父親としてこれ以上ないほど辛かった。本来なら気を遣うはずの親が子どもに気を遣われるというのは親心としては複雑な思いだった。

「俺がもっとしっかりしないとな」

そう呟くとトツカは子どもたちの待つコロニーへと急いだ。

「ん? あれは…」

 そんな時、帰路を急ぐトツカの目にある光景が飛び込んできた。

一瞬、宇宙を漂うデブリかと思ったがどうやら違うようだった。それはデブリというには整った形をしていた。

乗っているシャトルをその場に停止させ、漂っている謎の破片に目をやった。

「こいつは…ALSの残骸か」

周囲を見渡せばそれと同じように残骸となったALSがあちらこちらに見受けられた。

「そう日は経ってないな」

見れば残骸に残っている傷がまだ新しいように見える。昨日…いや、つい数日前に戦闘が行われていたと考えるべきだろう。

残骸と化したALSの数はそう多くはないが少なくもない。一個小隊もしくは二個小隊程度の数はある。

今は戦時下でこの程度の小競り合いは当然のようにあちこちで起こっていることだが、ここにある残骸たちはどこか不自然だった。ここにあるALSは全て火星軍のものだったのだ。それだけならまだ気になる程度ではなかった。それだけであればよほど実力のある部隊とでも戦ったのだろうと考えるのが普通だ。だがおかしな点はその場にある機体ではなく持っていた武器にあった。

「ありゃM120アサルトライフルじゃねぇか」

M120アサルトライフルは地球軍が主に使用しているもので重量が軽いわりに威力が大きいことで有名である。

「なんだって火星軍のALSがそんなもんを…」

いくら物資が地球側に比べて少ないとはいえ敵の武器をそのまま使うはずはない。もとよりそういう武器には奪取されたときのためにあらかじめロックがかかっていて、登録された火器管制システムでなければ撃つことすらできない。

このため機体自体を奪うことはあっても武器を奪うということはまずありえない。効率が悪いからだ。奪ったところで使えないのであれば意味がない。それなら始めから自軍で造ったほうが早い。結果論を言えば無駄なのである。

それにまだ不自然な点はあった。

この辺一帯は地球軍の制圧下なのだが別にこれといって重要なものはなかった。地球軍の拠点も資源コロニーも何もないのだ。ここから一番近いコロニーも今いる場所からはまだ遠くにある。

――なぜこんなところで戦闘が?

周りには隠れられるようなものは何もなく、あっても少数のデブリが散乱している程度。こんな何もないところで戦闘をする利点があるとは思えない。

「まさか…な」

これはあくまで推測だった。もしかすると地球軍が火星軍を装って何かをしていたのではないのだろうか。そう考えれば矛盾した機体と武器の組み合わせにも納得がいく。武器はともかく機体ならば操作系を少しいじってやればすぐにでも動かせる。

だが自らの陣地で敵を装うことに何の意味があるというのか。

「ま、俺には関係ないことか」

考えたところで答えが出るわけでもなし。自分に関係ないことであればなおさらどうでもいいことだとトツカはさっさと考えるのをやめた。

どうせ自分はしがない商売人だ。軍人でもなければ軍事評論家でもない。そういう無駄なことはもっと暇なやつがやればいい。

「あいにく俺は暇人じゃないしな」

今は一秒でも早く子どもたちの待つコロニーに帰らなければならないのだ。

「きっと寂しがってるだろうな…っといけね、んなこと考えてないでさっさと帰らねぇと」

時間を見るとどうやら三十分もいてしまったようだ。

「長居しすぎたか」

どうでもいいことに時間をかけすぎた。やはり余計なことは考えるべきじゃないなと反省する。

改めてコロニーに向け進路を取り、トツカはシャトルを動かしたちょうどそのときシャトルのレーダーに反応があった。

「あん…?」

不信に思いトツカはすぐさまレーダーを確認した。もしかするとどちらかの軍の偵察機かもしれない。可能性としては低いが用心にこしたことはない。なにせ何が起きるか分からない世の中なのだから、場合によってはすぐに逃げないとまずいことになる。

ところが…

「なんの反応もなし…? おかしいな。確かにさっきは反応したんだが」

レーダーを見る限りでは何もない。あるとしても周囲にあるALSの残骸くらいなものである。

「気のせい、だったか…」

どうも腑に落ちないがレーダーには何も映っていないのだから本当に気のせいだったのだろう。

そう思い再びシャトルを進めようとするとまたしても反応があった。すぐさまレーダーを見るがまたしてもレーダーには何も映っていなかった。

「いったいなんだってんだ」

わけが分からない。急に反応があったと思えば急に消え、消えたと思えばまた反応があり、そしてまた消える。まさに狐にでも化かされている気分である。

一瞬、これは火星軍の秘密兵器か何かではないかという考えが浮かんだ。その秘密兵器はALSほどの大きさをしているにも関わらずALSを軽く凌駕する性能を持っているというのだ。あくまで仲間内から聞いた噂なのだがもしかするとこの摩訶不思議な現象と何か関係があるのではないか…と余計なことを考えてみるがそれはないとすぐさま頭の隅っこに追いやった。

そんなことを考えているうちに三度目の反応があった。

「またかよ…」

諦め半分でレーダーのほうを見てトツカは驚いた。そこには僅かにだが確かな反応があった。

「かなり微弱だな、こりゃ」

どうやらさっきまでの不可思議な現象は反応が微弱すぎたためにレーダーが捉え切れなかったせいのようだ。

「ちくしょう。驚かせやがって」

さっきはあんなことを考えていたがやはり内心では少しビクついていた。可能性は低いとはいえまさかという可能性はあった。実際にはどうということもないことだったがこれがもし本当に火星軍の秘密兵器だったとしたらまず間違いなく証拠隠滅のために消されていただろう。そう考えるとよく平然としていられたものである。

「とはいえ…」

反応から察するにこの反応はALSのものだろう。付け加えるとするなら反応が微弱なところを見るとたぶんこのALSは大破しているものと見るべきだ。

「どうしたもんか」

この発信コードは地球軍のものだ。ここは辺境とはいえ地球軍の管轄化にある。ということは放っておいてもいつかは仲間に回収される可能性が高い。それにまだパイロットが生きているという保証もない。

とはいえこのまま放っておくのも人として気が引けるのも確かである。

「助けたとしても軍人だろ…見返りは無理だな」

こんなときでも損得勘定でものを考えてしまうのは商人の悪い癖だ。

「いかんいかん」

頭を振ってそんな考えを投げ捨てる。これはさすがに人として間違っている。

「可能性は低いが行かないよりはマシか」

そう思い立つとトツカはすぐさま行動を起こした。

シャトルで反応のあったポイントまで向かってみるとそこはさきほどの場所よりもさらに何もなかった。だからこそそこに唯一あったものが真っ先に目に入ってきた。

「ありゃ…ALSか……」

そこにあったのは確かに地球軍のALSだった。だが機体の状態はひどいものでほぼ全壊に近かった。

「こりゃひでぇってもんじゃねぇ…これじゃあ」

かろうじてコクピットは残っているがパイロットの生存は絶望的だろうことは明白だった。

「…一応、生体反応は調べてみるか」

無駄かもしれないが念のために生体反応を調べてみる。生きているという淡い期待を胸に結果が出るのを待った。

結果はすぐに出た。結果は残酷にも反応なし。

「やっぱな」

トツカは当然と言った口調だった。この状態で生きているほうが奇跡なくらい無残に破壊されていたのだ。当然といえば当然だった。

「残念だったな。生き残れなくて」

今は戦時下で人が死ぬことなどごく当然のように起きている。だから目の前のこれも珍しいことじゃない。

「運がなかったと思って成仏…」

救助を諦めかけたそのときほんの一瞬僅かだったが生体反応が検出されたのをトツカは見逃さなかった。

「マジかよ…!?

 驚きとともに諦めかけた救助をいう言葉を思い出した。

「こうしちゃいられねぇ。早いとこ回収しねぇと!」

トツカは急いでシャトルの後部ハッチを開きコンテナ運搬用の補助アームを操作してコクピットだけとなったALSをすぐさま回収に移った。ALSを無事に回収するとすぐに後部ハッチをしめ気圧を調節する。これで人間が入っても大丈夫だ。

生体反応が確認されたとはいえ応急処置を施す必要があるかもしれない。トツカは駆け足で後部デッキに向かった。

後部デッキに駆け込んだトツカは目を見張った。回収したコクピットを実際に目にしてみるとその惨状が見て取れた。両腕部は胴体との接合部からなくなっており、腰部から下にかけて全てが吹き飛んでいた。かろうじて残っていた頭部も右半分がメインカメラむき出しの状態であった。

「相当手痛くやられてんな…相手はかなりの手練れだったってところか」

素人目からだがどの破損部もほぼ正確に撃ち抜かれているように見える。これだけの腕を持ちながらコクピットだけ逃したのが不思議に思えた、が今はそれどころではない。

「ここまでボロボロだと制御系は完全におじゃんだろうな…」

なんとかしてコクピットハッチを開けようにも外部からの入力は完全にダウンしている可能性が高い。僅かな可能性に賭けるのもいいが今は時間が惜しい。こういうときハッチを強制開放するのが一番手っ取り早い。

「地球軍のALSなら確かこの辺に……っとあった」

全てのALSには決まって万が一の保険として手動でハッチを強制開放できるようになっている。そのためハッチにはごく少量―パイロットに被害が出ない程度―の爆薬が仕掛けられている。トツカが見つけたのはその起爆用ハンドルであった。

トツカはハンドルを握り締めると時計回りにハンドルを回して安全装置を外し、勢いよく手前に引っ張った。すると小さな炸裂音とともにハッチが内側からこじ開けられた。

「生きててくれよ…!」

ここで死なれていては後味が悪すぎる。トツカは祈る思いでコクピットを覗いた。

コクピットの中もひどいものであちこちのモニターや計器類が火花を上げていた。そんな中、シートに座っていたのは若い男だった。年齢はまだ二十代前半といったところだろうか。地球軍のパイロットスーツを着ているところを見ると間違いなく男は地球に所属する軍人であることは分かった。

「うっ…」

息をのんだ。

見れば全身にモニターなどの破片が突き刺さっている。中でも一番危険なのは腹部に刺さった大きな破片だ。出血量も半端ではない。これだけでも重症だというのに男の怪我はそれだけではすまなかった。ヘルメットのバイザーは割れ、そこから覗く額からはおびただしい量の血が雫となって宙を舞っていた。

「クソッ! これじゃあ応急処置なんて意味ねぇじゃねぇか!?

あまりの惨状にトツカは毒づくことしかできなかった。これだけの重症だと応急処置程度ではどうにもならない。

「早く病院に連れてかねぇと」

ここからだとトツカが拠点としている商業コロニーが最も近い。だがそのコロニーまではどんなに飛ばしても最低でも三十分はかかってしまう。

「それまで持ちこたえられんのか…」

これは一種の賭けだった。男の傷は今すぐにでも医者に見せなければいけないほどの重傷なのだ。それを三十分も持たせられるかどうか…かなり危うい状況だった。

だがそれでも何もしないで男がただ死へと向かっていくのを黙ってみているよりかはマシだと思えた。

「とりあえずできる限り出血は抑えねぇと」

今手元にあるものでできる限りの止血をするしかない。後は医務室に行ってからだ。

慎重に傷だらけの男の体をシートから引き離していく。なんとかシートから引き離すとそのまま男を抱きかかえてコクピットを出ると傷をこれ以上広げないようにゆっくりと、でも急いで医務室に向かった。

幸い狭い船内だったので医務室まで時間は掛からなかった。医務室に着くなり男をベッドに横たわらせ、すぐさま応急処置に入った。

慎重に体に刺さった小さな破片を抜き取り包帯でしっかりと止血をしていく。ここまでの処置はトツカでも難なくこなせたが一つだけ大きな問題があった。それは腹部に深く刺さった破片で、こればかりはまともに手当てしたことのないトツカではどうすることもできなかった。

「素人じゃこれが精一杯か…」

悔しいが医学の知識のないトツカにはこれが限界だった。

できる限りの止血を終えるとおもむろに男の体を包帯でベッドに縛りつけていった。

「安全運転なんてできねぇからな、こうでもしとかねぇと」

トツカの荒っぽい運転によって男がベッドから振り落とされてしまうことは安易に予想ができた。

「よし」

傷を広げない程度にしっかりと体をベッドに固定したことを確認するとトツカは操舵室に向かって駆け出した。

 

灯篭の如き明かりが天井から降り注ぐ。顔を上げれば赤く灯った蛍光ランプがやけに目についた。

見ず知らずの男を病院に運び込んでから優に一時間が経過していた。

「あいつら心配してんだろうな」

さすがに家で帰りを待っている二人の娘たちのことが気になってきた。だが助けたからには最後まで見届けるのが筋というものだろう。生きるにしても、死ぬにしても、だ。

男の怪我は一目で分かるほどの重傷だったのは言うまでもない。見た限りでも全身に至る裂傷、出血多量による衰弱、あの様子であれば頭も強打しているかもしれない。そんな状態で生きているだけでも奇跡に近かった。その状態で三十分もったのだ。これを奇跡と言わずしてなんと言おうか。

よほど生に執着していたか、よほど運がよかったのか、どちらにせよあの男はここまで生き延びることができた。これだけは事実である。

だがそれでも危険な状態であることには変わりはなかった。コロニーに着くと早々に救急病院に連絡を取り、救急隊員の到着を待った。

数分後、救急隊員が到着し、すぐさま男は救急隊員によって近くの病院へと搬送されていった。もちろん、トツカもそれについて行き、今に至る。

「あの、失礼ですがお知り合いの方でしょうか?」

手術室の前で待っていると不意に看護師に声をかけられた。

「いえ、違います」

「そうですか…」

「何かあったんですか?」

看護師の態度を不審に思ったトツカはついそんなことを言ってしまった。

「それが、身元らしいものが見つからなかったものですから」

「それなら地球軍に…」

 と言いかけてトツカは口をつぐんだ。

「何かご存じで?」

「いえ、別に」

自分でもなぜその時口をつぐんだのかわからなかった。ただトツカの中で何かが引っ掛かっていた。

「それよりもあの人、大丈夫なんでしょうか」

「ああ、それならもう安心ですよ。なんとか一命は取り留めました」

「そうですか」

それを聞き、トツカはようやく肩の力が抜けた。知らないやつとはいえ、目の前で人が死んでいくところを見るのはご免だった。どうしてもティナが死んだ時のことを思い出してしまう。何もできず、ただ弱っていくのを見ていることしかできない自分の不甲斐なさを思い出してしまうのが堪らなく辛いのだ。

「それじゃあ、私はこのへんで」

無事だと分かれば、もうここに留まる意味もなくなる。自分勝手かもしれないがこれでもう助けた義理は果たしたはずだ。後のことは医者やらなんやらがどうにかしてくれるだろう。

それよりも今は少しでも早く娘たちの下に帰りたかった。そして、帰りを待ちわびた娘たちの顔を見たかった。

 

それからさらに二ヶ月が経った。戦争は今もまだ続いていたがトツカはすっかり例の仕事から手を洗っていた。それもこれもあの日の娘たちの顔を見てしまったからだ。

あの日病院から帰ってきたトツカを待っていたのは喜んだ顔をしたアルトと始めて見る本気で怒った顔のソプラノだった。

「お帰りなさい、お父さん」

「あぁ、ただいま」

アルトのにこやかな顔を見ていると今回も無事に帰ってこられたのだと実感できた。

そんなアルトとは対照的にソプラノはジッとトツカのことを見据えていた。

「…今回のお仕事大変だった?」

「そうでもない」

「じゃあなんでこんなに遅くなったの…」

「まぁ、ちょっとな」

今日あったことをどう話せばいいのか分からなかった。今思えば素直に人助けをしていたと言えばそれで済んだかもしれない。だがこのときはそこまで気を回している余裕が無かった。だから話したところで下手に心配をかけるだけだと思ってしまった。

だがソプラノはそうは思ってくれなかった。

「どうして連絡してくれなかったの!? 私凄く心配したんだから! もしかしたらお父さんもお母さんみたいに…」

ソプラノの目には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「お前…まさか…」

今のソプラノの顔を見れば、やはりあの不安は気のせいじゃなかったと思い知らされた。ソプラノは薄々とだが、トツカのしているもう一つの仕事に気付いていたのだろう。それがどれだけ危険なことなのかもたぶん知っているのだろう。

「…すまん」

言い訳ならいくらでもできた。だがトツカには謝ることしかできなかった。

「お父さんまでいなくなったら…私…」

今にも崩れてしまいそうなソプラノを見て、トツカは揺らいでしまった。

ここまで心配をかけるとは思っていなかった。あの仕事だって娘たちを思ってのことだった。だがその結果がこれだ。やはり自分は駄目な父親なのかもしれない。

だからこの日心に決めたのだ。もうこれ以上娘たちに心配をかけるようなことはしないと。だからこそ、あんな危険な仕事から足を洗い、ついでになんとなくだが、煙草も一緒にやめた。

今では真っ当なフリーの商人としてあちこちを駆け回る生活をしていた。幅広い商品を扱っていることからそれなりに繁盛しており家族共々なかなか忙しい日々を送っていた。

おかげであの日の出来事を忘れかけていた。ちょうどそんなときだった。

その日は主立った仕事もなくトツカは住処としているコロニーでのんびりしていた。

「こういう日に限ってこれかよ」

窓から外を眺めると今日は珍しく雨が降っていった。とは言っても大気から重力まで制御されているコロニー内で自然の雨は降らない。今降っている雨はあくまで水循環の一つでしかない。本来なら水循環は循環システムでまかなっているのだが、定期的にシステムのメンテナンスが必要でメンテナンスの日に限ってはシステムを一時停止させ人工的に作り出した雨でそれを補っていた。

おかげでどうも憂鬱な気分である。人工的とはいっても雨は雨で、濡れるのが嫌いなトツカにしてみれば見ているだけでうんざりしてしまう。

「それじゃあお父さん。私、買い物に行ってくるね」

「おー気をつけてなぁ」

「アルトもいい子にしてるのよ」

「はーい」

いつもと同じ、アルトの元気な声とトツカの締まりのない声を聞きながらソプラノは雨の降る外へと出かけていった。

 

雨は嫌いじゃない。傘を差しながら歩くいつもの道はなんだか違って見えてなんだか新鮮な気持ちになれるから。

いつもの帰り道なのにどこか違う、そんな帰り道を一人歩くソプラノの姿はどこか楽しげに見えた。手に提げたいっぱいの買い物袋も今だけは軽く感じられる。降りしきる雨音も綺麗な旋律に聞こえてくる。そんな今日だけの音楽を聴きながら少女は軽やかな足取りで家路を目指した。

「今日の夕飯何にしよう?」

お父さんのせっかくのお休みだし、今日は少し豪勢にいこうかな。それならお父さんの好物にしようかな、などとあれこれ考えながら歩いているだけでもなんだか楽しい気持ちになってくる。

今日くらいはアルトの嫌いなものは出さないようにしてあげようかな。きっとお父さんはお酒を飲むだろうからおつまみがあったほうがいいよね。でも飲みすぎはよくないからほどほどのところで止めてあげないと。

こうやって家族のことを考えているだけで十分幸せを感じられる。お母さんがいない悲しみには幸せという絆創膏を張ってあげよう。その傷は一生なくならなくてもそれ以上の幸せを感じていよう。

だから今の家族が大切。家族全員が笑っていられる今がとても大事。

お母さんが死んでからあの日までのお父さんは一人だけ辛そうで、私たちの前では無理して笑っていて、なんだか悲しかった。家族なのに遠くて、近くにいるのに離れているようで、そのうちお父さんもお母さんみたいにいなくなってしまうのではないかと薄々感じていた。そんなお父さんを私はただ見ているしかできなかった。まだ子どもの私には何もできなくて、待つことしかできなくて、ただ笑顔で『いってらっしゃい』としか言えなくて、それが辛くて…

あの日、仕事を終えたお父さんから『これから帰る。いつもくらいに帰れると思う』といういつもどおりの連絡があったあの日…お父さんはいつもどおりには帰ってこなかった。今まで約束どおりの時間に帰ってくるのが当たり前だったお父さんが一時間以上も連絡もないまま帰ってこなかった。こんなのは初めてだった。時間が経てば経つほど不安は大きくなって、嫌な予感しか浮かんでこなかった。

お父さんが私たちに内緒で危ない仕事をしているのは知っていた。本当はやめてほしかったけど、私たちのためにやっていることだと分かっていたから何も言えなかった。いつ死ぬかもしれない仕事だと知っていた。もしかしたらお父さんは……

今にも不安で泣いてしまいそうだった。だが絶対に泣けなかった。私の傍にはまだ小さいアルトがいたから。私が泣いてしまえばきっとアルトも不安がって泣いてしまう。だから泣いてはいけないと思った。お姉ちゃんなんだからと自分を誤魔化して笑顔でいた。

その日の夜遅く、お父さんは暗い顔をしながら帰ってきた。お父さんの顔を見た瞬間、今まで我慢していたものが溢れてきそうになった。

その日、私は始めて本気で怒った。言いたいことがいっぱいあった。連絡をよこさなかったこと、どれだけ心配したかということ、そして無事に帰ってきたこと。その全てを言うことはできなかったけど、私の気持ちはお父さんに伝わった。

その日以来お父さんは変わった。危ない仕事からは手を洗い、まじめに商人として働き出した。そんなお父さんを見ながら私はなんだか嬉しくなった。遠くにいたお父さんが近くにいるような気がしたから。

私も微力ながら仕事を手伝いだすようになった。お父さんはそんなことはいいからアルトの面倒を見てろなんて言っていたけど、本当は嬉しかったと思う。家族が近くに感じられる。それが大切なんだと分かったから。

「あ」

考え事しているうちにいつの間にか家の近くの橋まで来ていた。手すりから覗き込むように下に流れる川を見るといつもより水位が上がって流れが速かった。いつもは緩やかで子どものかっこうの遊び場となっている川も雨の降る日だけは我侭なくらい荒れている。

少しの間、そんな我侭な川を見つめていた。いつもと違う風景を見られるだけでも外に出た甲斐はあったかもしれない。

「っと」

いつまでも川を眺めているわけにはいかない。そろそろ帰らないと二人が心配する。

少しだけ急いで橋を渡りきろうと歩くペースを上げた。

「あれ?」

前のほうから傘も差さずに歩いてくる人影が見えた。人工的な雨とはいえ雨量は少なくはない。傘を差さずにいればそれこそ一瞬でびしょ濡れになる。

足早に人影のほうに向かっていくと案の定その人はびしょ濡れだった。全身に雨を受け、今にも倒れそうな感じで歩いていた。見れば自分よりも年上な青年だった。

ソプラノはなんだか心配になって青年に駆け寄った。

「あの、大丈夫ですか…?」

ソプラノが一声掛けたのと同時に青年は音を立ててその場に倒れこんだ。

「えぇ!?

あまりのことに大きな声で驚くしかできなかった。

「あの…えっと」

何をすればいいのか分からずパニックになってしまった。人が目の前で倒れられれば誰でもそうなる。こんなとき何をすればいいのか思いつかない。考えようとしてもうまくまとまらない。

「えっと、えっと…」

うまく回らない頭で必死に考える。何をすればいいのか、何が必要なのか。

そして、考え抜いた末にソプラノの出したのは、

「今お父さんを呼んできます! だから、えっと…この傘使ってください!」

ソプラノは青年がこれ以上濡れないようにと倒れている青年の横に傘を置き、大急ぎで家族のいる家へと駆け出していった。

 

ソプラノが買い物に出かけえて一時間弱。すぐそこのお店だというのに時間が掛かりすぎな気もするがあのソプラノのことである、きっと帰りの道中あちこちの風景でも眺めているのだろう。

「ふぁ…」

大きな欠伸を一つ。ただいまアルトは遊びつかれてお昼寝中、それに付き合わされたトツカも程よく疲れていた。

せっかくの休みなのだから外でパッと気晴らしをしたかったのだが、外が雨はどうしようもない。

「腹減ったな」

時計に目をやると夕飯前の時刻を指していた。

「早く帰ってこねぇかな」

首を長くしてソプラノの帰りを待っていると不意に勢いよく玄関が開かれた。

「なんだなんだ」

普通ソプラノはこんな乱暴に玄関を開けたりはしない。ということはまさか。

急いで玄関先に向かうとそこにいたのはびしょびしょに濡れたソプラノだった。

「どうしたんだ!? ソプラノ」

あまりの光景に言葉が出ない。髪から滴り落ちる水滴、乱れている呼吸、何かがあったことは明白だった。

「お父さん!」

「なんだ!?

「そこの橋で人が倒れたの。助けてあげて!」

「…なんだ、そんなことか」

状況が状況だけに不審者にでも襲われたのかと思ってしまった。そんなやつがいたらまず間違いなく殺してくれる。

「そんなことじゃないよ! 早く助けてあげないと」

「分かった分かった。んで橋のどの辺だ?」

ソプラノはこうなったら手に負えなくなる。元々人がいいのだ。だから困っている人がいたら放っておけない。そして、結局自分ではどうしようもなくなってその手伝いをする羽目になるのだ。

全く誰に似たのやら。

「橋のこっち側」

まだ頭が回っていないのだろう、曖昧な返答しか返ってこない。だが橋のこっち側ということだけで場所は特定できた。この辺にある橋は一つしかないし、こっちと側と言っているのだから家に近いほうなのだと分かる。

「分かった。ソプラノ、お前はタオルを用意しとけ」

「うん!」

「それと、ちゃんと体拭いておけ」

「うん!」

「よし、んじゃ行ってくる」

そう言うと近くに掛けてあったレインコートを羽織、外へと飛び出していった。

家から橋までは走れば一分も掛からない。橋の傍まで行くと見慣れた傘を見つけた。あれはソプラノが愛用している傘だ。ということはそこに倒れたやつがいるということだ。

傍まで走っていくと確かに人が倒れていた。見たところ男のようだが。

「しっかりしろ。大丈夫か」

 そう言って顔を覗き込んだ瞬間、ぎょっとした。

「おいおい。なんの冗談だよ」

トツカはその男の顔を知っていた。そこに倒れていたのは二ヶ月前のあのときトツカが助けたあの地球軍の青年だった。

「どうしてこんなところに」

そんな疑問が浮かぶが今はそれよりも体の状態を確認するほうが先だ。

呼吸は荒いがしっかりとしている。目立った外傷も特に見当たらない。問題なのは体温のほうだった。額に触れてみると手でもはっきり分かるほどに熱くなっていた。

「ったく、なんだってこう…!」

とにかく今はすぐにでも青年をこの場から移動させることが先だ。トツカは青年を背負い、片手には置いてあった傘を持ち急いで家に向かった。

家に着くと玄関先には服を着替えて待っていたソプラノの姿があった。

「お父さん! これ」

ソプラノは持っていたタオルをトツカに手渡した。すぐに青年をタオルに包み濡れた体を拭いてやった。

「ソプラノ、俺の着替え持ってこい」

 無言で頷いてすぐさま着替えを取りに駆け出した。

「それにしてもなんだってこいつ」

こんな雨の中を傘も差さずに歩いていたのだろうか。

「お父さん。持ってきたよ」

「サンキュ。後はあったかいお湯とタオルを用意してくれ」

「分かった」

ソプラノに次の指示を与えると手早く青年の衣服を脱がせた。シャツを脱がすとそこには腹部に巻かれた包帯が見えた。

「まさかこいつ、病院を抜け出したんじゃ」

あのとき助けたときに比べれば傷も塞がっているようだがまだ安静にしていなくてはいけない状態だろうに。

「お父さん。はい」

 お湯の入った洗面器とタオルを受け取り、冷えた体をタオルで拭いていった。

――考えるのは後だな。

とりあえず今は冷え切った体をどうにかするのが先決だった。

――話はそれからでも遅くないだろ。

ある程度体が温まったことを確認するとこれ以上冷えないよう服を着せ、リビングのソファーに寝かせた。

 

青年が目を覚ましたのはそれから四時間後のことだった。あれからすぐに晩飯を済ませ、アルトを寝かしつけたのは正解だった。

「ん…」

「よう、目が覚めたか」

「…ここは」

どこか警戒した面持ちの青年にトツカはため息を一つついた。

「病院でないことは確かだな」

それを聞いて安心したのか、青年はホッと胸を撫で下ろした。

「すみません。なんか迷惑をかけたみたいで」

「礼を言うなら娘に言いな」

トツカの後ろから心配そうに覗き込むソプラノの姿があった。

「君が俺を…?」

「あ、はい」

「ありがとう。助かったよ」

青年が微笑むとソプラノも恥ずかしそうに笑顔で返した。

「本当なら病院に連れて行くところなんだが、なんかわけありっぽかったんでな」

よくもまぁこんな嘘が口から出てくるものだと自分で自分に感心してしまう。あの状況を見てわけありと判断するには情報が足りなすぎる。だがトツカはこの青年が重傷を負って本来なら病院で寝ているであろうことを知っていた。

「…すみません」

そう言うと青年は押し黙ってしまった。

「いや何、俺も病院はあまり好きじゃないんでな。それであんた名前は?」

「あ……その」

それを聞いた青年はさらに困惑した様子になった。

「ん? どした?」

「それがその…何も覚えていないんです。自分のこと」

「何!?

突拍子もない答えについ大声を上げてしまった。

「記憶喪失みたいなんです。医者が言うにも何か強いショックを受けたせいじゃないかと」

確かにあれだけの重傷だったのだ。その可能性も皆無ではない。だがということは…

「それじゃああんた、なんで病院にいたのか覚えてないのか!?

「はい。全く」

これは面倒なことになった。素性が分からない以上これ以上のことは何も聞けない。願わくはあの時なぜあんなことになっていたのかということを聞きたかった気もしたが覚えていないのだからそれも無理は話だった。

「そうか…」

やはり病院に連れて行くべきだったろうか。記憶喪失ということならば病院にいたほうがよかったのではないかと思えた。

「やっぱり病院に行ったほうが…」

今まで黙っていたソプラノが心配そうにそう訊ねてきた。

「病院にいても記憶が戻るとは限らないし」

「だから抜け出してきたのか」

「…はい」

確かに青年のいうとおりではある。記憶喪失というものはなんらかのきっかけによって思い出すことが多い。病院にいようといまいと思い出せるとは限らない。

「これからどうすんだ。記憶もないのにどこに行こうってんだ」

「それは…」

やはり考えなしに出てきたようだ。ここまでの会話を聞く限りでは日常生活に支障がない程度の一般常識は覚えているように思えるのだが、こういった少し考えれば分かるようなことを考え忘れているところを見ているとよほど記憶がないことに気が動転していたか、あるいは本当に抜けているだけなのか、どちらにせよ危なっかしくて見ていられない。

「ねぇ、お父さん」

後ろから小声で呼ばれた。

「どうにかならないかな」

「どうにかってぇと?」

嫌な予感がした。

「記憶が戻るまでうちに住んでもらうとか」

「はぁ…」

嫌な予感は的中。人がいいソプラノならきっと放っておけないだろうことは最初から分かっていた。だがしかし…

「犬や猫とは違うんだぞ」

ペットとは命の重さが違う。別にペットの命が軽いとは言わないがそれとは比較にならないくらい人の命というのは重い。人一人の世話を見るということは想像以上に大変なことなのだ。

「分かってる。そう簡単にいかないことくらい」

「だったら…」

「でも、やっぱり見捨てておけない。それにあの人悪い人には見えない」

確かにパッと見た限りではお人よしそうな顔をしているが。

「…だがな」

外見と内面が一緒だというわけでもない。もしかすると記憶喪失ということも偽りかもしれない。

それが分からない歳でもないというのに。

トツカがそんなことを思っていると、ソプラノは真っ直ぐな瞳でトツカを見つめていた。その真っ直ぐな瞳を見ているとつい死んだ妻のことを思い出してしまう。

――あいつならきっと…

「お母さんなら、助けてたと思う」

「……」

それを言われては返す言葉がない。確かにティナが生きていればすぐにでも助けてあげようと言っていただろう。

死んだ妻もソプラノに負けないくらいお人よしで困っている人を見かけると黙ってはいられない性格だった。トツカがいくら言ったところでその考えを曲げることは結局なかった。そこがティナのいいところであり悪いところであったがトツカはそんなティナが好きだった。

「はぁ…何もこんなところまで似なくてもいいのにな」

全くもって自分は妻にも娘にも勝てないなと苦笑する。

「分かったよ。だが記憶が戻るまでだぞ」

「ありがとう! お父さん」

「おい。やめろって」

嬉しさのあまり抱きついてくるソプラノにトツカは年甲斐もなく照れてしまった。

それを黙ってみていた青年の顔には微笑が浮かんでいた。

やっぱり恥ずかしい。

「いきなりこんなこと言うのもなんなんだが。あんた、行くとこないんならうちで働かないか」

「え…」

あまりにも唐突なことに青年は目を丸くした。

「俺はこう見えてもフリーの商人をやってるんだが、最近忙しくて人手が足りなくて困ってたんだ」

「ですが…」

「なぁに住み込みで雇ってやるから住む場所には困らねぇし、飯もちゃんと出るから安心しろ。ま、あんたが嫌なら別に無理にとは言わねぇさ」

「いえ、そうではなくて」

青年が言いたいことは分かっている。

「どこの誰だか知らないやつを雇うなんて、か?」

「…はい」

見事に言い当てられ、青年を俯いてしまった。

「何、気にすんな。困ってたらお互い様ってやつだ。それに娘があんたは悪い人じゃないって言ってるんでな」

そう言ってトツカは後ろを指差した。

「え…」

指差しされたほうを見るとトツカの後ろで恥ずかしそうに頬を赤らめながら微笑んでいるソプラノの姿があった。

「少しだけ考えてもいいですか」

「ああ」

それから青年が結論を出すのにさして時間はかからなかった。

「…こんな俺でよければ」

「ってことは…」

「はい。ここで働かせてください」

「やった!」

 それまで不安な顔をしていたソプラノに笑顔が戻ってきた。

――お人よしは俺も同じか。

いつの間にか、自分もずいぶんと丸くなったもんだと実感する。これもティナのおかげかもしれない。

「そういやあんたの名前どうする?」

これから一緒に生活していう上で名前がないのは幾分か不便である。

「どうすると言われても」

確かにいくら記憶喪失とはいえ自分で自分の名前を決めるのはさすがに抵抗がある。

「どうすっかなぁ」

はっきり言ってこういった名前を決めるというのは得意ではない。娘たち二人の名前にしてもそうだ。二人の名前はティナの一存で決まった。一応トツカも考えたことは考えたのだがあまりに独創的すぎて全てティナに却下されたのだ。

「……ジュビア」

 うーんと柄にもなくトツカが悩んでいると後ろからソプラノの呟きが聞こえてきた。

「…私、ジュビアがいいと思う」

「ジュビア? なんだそれ」

「ジュビア―雨って意味の言葉。雨の日に出会ったから」

「ジュビア…」

ジュビアという言葉に何を思うのか。青年は三度その言葉を復唱した。

「ちょっと安直すぎるかな」

恥ずかしそうに照れているソプラノを見つめながら青年は、

「いや、ジュビア…いい響きだ。気に入ったよ」

笑顔とともにそう返事をした。

「え、それじゃあ!」

「ああ、俺は今日からジュビアだ」

そのとき見せた笑顔が凄く嬉しそうだったものだからつい釣られてこっちも笑ってしまった。

こうしてジュビアという青年はH家の世話になるようになったのだった。

 

それから早いもので七年。青年―ジュビアはすっかり家族の一員になっていた。要領がよく、少し教えてやればすぐに仕事を覚え、今では仕入れの半分を任せているほどである。それだけジュビアという青年はH家にとって欠かすことのできない人物になっていた。

今更かもしれないがなぜあのときジュビアを雇おうなんて思ったのだろうか。いや確かにあの状況ではああ言うしかなかったのだが…。どう考えても身元不明人を雇うなんて普通では考えない。相手が信頼のおける人物だと分からない限りそんなことを言うやつなどそうはいない。いたとしてもそれはよほどのお人よし―ティナとかソプラノ―くらいなものだ。

唯一分かっていたことといえばジュビアが地球軍に所属していた人間だったということ。それが分かっているなら記憶がなかろうと軍に確認を取れば身元くらいは分かったはずなのだが、そういうわけにもいかない理由があった。

あのときトツカが重傷のジュビアを発見したあの場所で感じた違和感がどうしても拭えなかったのだ。地球の制圧下、それも重要拠点も何もないところで起きた戦闘。残骸となっていた火星軍ALSが使っていたのは地球製の武器。そして、その現場で重傷を負って死に掛けていた地球軍兵士…。

あのときは瀕死のジュビアのことで頭がいっぱいだったということもあって、まともな思考はその時点で止まっていた。改めて思い返してみればおかしな点はまだいくつもあった。

あの場に在ったのはすべて火星軍ALSの残骸ばかりで地球軍のものといえばジュビアの乗っていたほぼ全壊にまで大破したALS一機のみだった。あれだけの火星軍を相手にたった一機だけで全て撃破したとは到底思えない。もし仮に単機であれ全てを撃破できたとしよう、ではそれだけの腕を持つやつをどうやって大破にまで追い込んだというのか。実はあそこにあった残骸以上に敵が多く、不意を突かれたとも考えられる。ではその敵はどこに消えたというのだ。それに加えて敵の目的はいったいなんだったのか。

一番の謎はなぜジュビアを完全に殺さなかったのか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ということである。もし敵が何かの作戦中だったとして、それをたまたま周辺宙域の巡回していたジュビアに発見されたとするならば敵の取る行動は一つだろう。目撃者の消去。だというのに発見したときのジュビアのALSというと原型は留めていなかったにせよ完全に破壊されたわけではなかった。こういう場合、敵は完全に撃破することが普通である。下手に生かしておけばそこから情報が漏洩する危険があるからだ。それなのにジュビアのALSは完全に撃破されていなかった。確かにあの状態を見れば誰でもが死んだものと判断するだろう。だが僅かな可能性ではあるが生きている可能性もあった。実際ジュビアは生きていたのだからその僅かな可能性も捨てたものではない。可能性がある以上は撃破する必要があるのにも関わらずあの状態のまま捨て置くことなどまずありえないのだが…。

もしかするとあのときの推測はあながち外れてはいなかったのではなかろうか。火星軍に偽装した地球軍があそこで何かをしようとしていた。むしろしていたのかもしれない。あのときはその考えをくだらないと思ったが、今改めて考えてみればしっくりくる。

極めつけはあの出来事から数日経った頃に突然理由不明の宙域封鎖が行われたことだった。もちろんトツカが見たあの宙域をだ。これは仲間伝いに聞いた話なのだが、何でも地球軍はその宙域で何かを回収していたのだそうだ。予想どおりなら回収されたのは火星軍ALSの残骸とその武器だろう。

以上のことを踏まえた上でトツカが出した結論は、火星軍に扮した地球軍が何らかの行動をしていたところに偶然ジュビアが現れ、口封じのために消されかけたということだ。

となればジュビアを軍に連れて行くのは危険であった。口封じのために殺したはずの相手が生きていると知れば軍はまたジュビアを殺しに来る危険性があったからだ。

ジュビアを殺そうとしたのが軍全体の意思だったのか、それとも個人の意思だったのか、いずれにせよ軍には行くのは得策ではない。

おかげで七年経った今でもジュビアの素性は分からないままだった。せめて糸口さえつかめればいいのだが…とないものねだりをしたところで意味がないのは分かっている。ならばせめて今はこの日常を楽しむべきだろう。

「ねぇ、ところでお父さん」

「なんだ、アルト?」

「そろそろ向かわなくていいの?」

「ん? もうそんな時間か?」

そう言って時計に目をやると驚いたことにあれから三時間も経っているではないか。時間が経つのは早いとよく言うがまさかここまで熱中していたとは思いもしなかった。

「なんだ、約束の時間までまだ一時間以上あるじゃねぇか」

「お父さん、相手を待たせるのはよくないよ」

「ふむ…」

言われてみればそれもそうか。こちらから依頼しておいて約束の時間に遅れるなど相手に失礼でしかない。

「…そんなこと言われたら仕方ねぇ、早めに向かうか。確かにアルトの言うとおり、相手を待たせるのは商売人の名折れってもんだ。ジュビア、進路分かってんな?」

「もちろんです。今すぐにでも出発できます」

「おーし、なら目的地目指して出発だ!」

「「「了解」」」

景気の良い声がブリッジに響き渡る。これをするとなぜかブリッジの空気が引き締まるから不思議である。

「進路最終確認OK。ステイクハーレー発進します」

ジュビアの掛け声とともに船のメインスラスター四基が一斉に火を噴く。それだけの数のスラスターが同時に点火しただけあってブリッジに軽い衝撃が起こり、急な衝撃に耐え切れなかったアルトが尻餅を突いたのはご愛嬌というものだ。

気がつけば船は見る見るうちに速度を上げ、一瞬のうちにその場を後にしていった。