今日のソプラノ・Hはいつもよりも気合いが入っていた。

普段はあまり着ないような少し露出の多い服装を選び、それに合わせて髪型とメイクも大人っぽい感じにまとめてみた。ワンポイントとして腕にシルバーを巻いてみたりして、普段とは違う自分≠演出してみた。

――よし! 今日こそ言う。絶対言うんだから!

そう決意してこの日を迎えたというのに…

「はぁ…」

「どうした?」

「え? ううん。なんでもない…」

「そっか」

こうして本人を前にするとなかなか言い出せないわけで。

先ほどから言い出すチャンスを窺っているのだが、そう簡単には訪れてはくれないわけで。タイミングが悪いというか、間が悪いというか、なかなか二人だけの空気になれないというか。

おかげでずーっとあちこちのお店のショーウィンドウを見て歩いている。これじゃあ、ただのウィンドウショッピングだ。

――やっぱり前もって下調べしておけばよかったかなぁ…

後悔あとを絶たず。喫茶店の一軒でも目星をつけておけばよかった。できれば静かなで落ち着いた雰囲気のところで…なんてこだわったのはいけなかった。

このままではせっかくの機会もふいになってしまう。それだけは絶対に嫌だ。今日こそはなんとしても伝えるんだ。

そのチャンスを窺い、こっそりとジュビアの方を見る。すると、

「ん? 俺の顔になんかついてる?」

「ふぇっ!? う、ううん! そんなんじゃないの。そんなんじゃ…」

「そ。ならよかった」

「…うん」

気付かれてしまった。恥ずかしい…恥ずかしさのあまりつい俯いてしまった。顔全体が熱い。きっと顔は真っ赤になっているに違いない。

――うぅ、ジュビアさんってこういうところは鋭いんだから。

意識してジュビアを見ているときは大抵ジュビアに気付かれる。こっそり後ろ姿を見ているときでさえ気付かれてしまうのだ。そのくせ恋愛に関してはまるで鈍感なのだ。

――もしかして気付かないふりしてるのかも…

そんなことを考えたこともあった。もしかするとそうなのかもしれない。だがジュビアがそんなことをする人じゃないと信じている。七年間もずっと一緒に暮らしてきたのだ。ジュビアがどんな人間なのかくらい分かっているつもりだ。もし仮にジュビアがソプラノの気持ちに気付きながらも気付かないふりをしていたとしても、それはきっと何か事情があってのことだろう。

とにかく、それくらいでソプラノの気持ちが変わるはずはない。それよりも今重要なのはどうやってチャンスを作るかということ。

「なぁ、ソプラノ」

「何?」

「ちょっとあそこで一休みしないか? さすがに歩き疲れてきたかな」

ジュビアが指を差した方にはまさにソプラノが探し求めていたちょっと落ち着いた雰囲気の喫茶店≠ェあった。今の時代には珍しいレンガ調の外壁と、綺麗に整えられ色とりどりの花が咲いている店先の庭がなんとも落ち着いた雰囲気を醸し出している。

――これってもしかして…

千載一遇のチャンスだった。ならば、このチャンスを逃すわけにはいかない。

「うん。いいよ。私もちょうど歩き疲れてきたとこだったから」

「それはよかった」

「そうと決まれば、早く行こッ」

つい気持ちが急いてしまう。ソプラノはジュビアの手を取ると喫茶店に向かって歩き出した。

「お、おい、引っ張るなって」

急に引っ張られたせいでジュビアは前につんのめる姿勢になってしまった。

「早く、早く」

「分かったって」

ジュビアは少し歩く速度を上げ、急ぐソプラノに歩調を合わせた。

「ねぇ、ジュビアさん。あれ」

お店に近づいていくと次第にお店の全景が見えてきた。

「おぉ、これは凄いな」

まず始めに驚いたのはお店の正面にあるアーチだった。一見すると質素に見えるが丁寧な作りと所々に吊るされている薔薇をあしらったガラス細工がアーチに上品さを与えていた。

アーチを越え、お店の入り口へと続く石畳を二人並んで歩いて行く。よく見ると石畳の脇には小さなスミレが愛らしく咲いている。その先に見える入り口のドアはシックな木目調で外壁のレンガともよくマッチしていた。ドアにはこのお店の名前だろうか、『Elf―エルフ―』と彫刻されている。エルフと彫られたその下にはオープンと書かれた掛札が掛かっていた。

ドアを開け、お店に入ると最初に出迎えてくれたのは入り口前のカウンターで丸くなって座っているちょっとぽっちゃりとした三毛猫だった。二人の来客に「ニャー」とひと鳴き。するとその鳴き声に気がついた初老の男性が「いらっしゃいませ」と一言。きっとこの店のマスターだろう。まっ白なシャツをピシッと着こなし、コーヒー豆を煎っている姿が様になっている。

店内はそれほど大きくはないものの、木製品を基調とした内装が外観通りの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。それに加えて木ならではの温かさがあり、

店内を見回すと二人以外にお客の姿はない。お店の場所がメインストリートから離れたところにあるからだろうか。こんなに落ち着いてお洒落なのに勿体ないと思ってしまう。

――でも今はありがたいかも。

これなら誰かに聞かれる心配もなく、安心して告白することができる。しかもどこの席にも自由に座れるのだからいいこと尽くめだ。

「う〜ん…どこにしよう」

「…おっ、あそこにしないか?」

ジュビアが見つけたのは窓に面したテーブル席だった。

「わぁ…いいかも」

窓から差し込む温かな日の光がテーブルを照らしている。真昼のぎらついていた日差しは夕暮れに向かい淡く柔らかな日差しへと姿を変え、テーブルを包み込んでいる。それだけでそこはまるで二人のために用意された特等席のように見えた。

二人が席に着くのと同じくしてマスターがお冷の乗ったトレイを片手に現れた。「いらっしゃいませ」と一礼する姿にもどこか品性を感じる。昔、そういった仕事でもしていたのだろうか。

――実は昔、凄いお屋敷の執事だったとか。

こんな無駄のない立ち振る舞いを見ているとあながちありえなくもないかもしれない。

「メニューはそちらにございますので、お決まりになりましたらお声をお掛けください」

「はい。わかりました」

「では」

再び一礼し、マスターはまたカウンターの奥へと戻って行った。

「ねッ、ジュビアさん」

「ん? どうした」

メニューに目を通していたジュビアはソプラノの声に顔を上げた。

「マスターさんって元は執事さん、とかだったのかな」

「あー…確かにそれはあるかもな。なんか雰囲気があるもんな」

「私もそう思ったの。後で聞いてみようかしら」

「ほどほどにな」

苦笑交じりにジュビアは言った。

「はーい」

それから二人してメニューを眺めた。それほど品数は多くはないものの、サンドウィッチなどの喫茶店定番の軽食からマスターおすすめの手作りケーキセット

「決まったか?」

「うん。決まった。ジュビアさんは?」

「俺も決まってる」

「じゃあ、呼ぶわね」

「おう」

「すみませーん」

店内に流れている緩やかな音楽の邪魔をしないように控え目な声で言った。

――あ、小声すぎたかも…聞こえたかな。

言ってからそう思ったが、マスターがこちらに向かって歩いてきているところをみるとどうやら取り越し苦労だったようだ。

「お待たせ致しました。ご注文を承ります」

いつの間に取りだしたのか、気がつけばマスターは注文用紙を手にしていた。取りだす瞬間がまるで見えなかった。

――凄い早業かも。

やはり只者ではないのかも知れない。

そんなことはさておき、早く注文をしなくては呼んだ意味がない。

「カフェ・オレを一つと…」

ジュビアは手早く自分の注文を終えると「どうぞ」とアイコンタクトをしてくれた。

「えと、この苺のケーキセットを一つ」

本当は紅茶だけにしようと思っていたのだが、メニューに載っているケーキの写真があまりにおいしそうだったので、ついセットを選んでしまった。

「お飲み物はいかがいたしますか」

「えーと…じゃあ、ハーブティで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

注文を取り終わったマスターは来た時と同じ足取りでカウンターへと向かっていった。

「それにしても…素敵ね」

窓の外を眺めるとそこからは店先の風景が一望できた。先ほど歩いてきたスミレに彩られた石畳の歩道や丁寧に植えられた花壇の花たち…どれも見ているだけで心が和む。

「そうだな」

ソプラノに合わせるようにジュビアも窓から見える景色を楽しんでいた。

そっと視線をジュビアに向けると、

「あ…」

「うん?」

バッチリと目が合ってしまった。

一瞬で顔が熱くなったのが自分でも分かる。

――どうしよう。何か喋らないと……

ここで話を途切れさせたら、せっかくのこの空気が無くなってしまうんじゃないか…そんな気がしてしまった。

「そういえば…」

ソプラノがああだこうだと考えていると、おもむろにジュビアが口を開いた。

「今日のソプラノはいつもと雰囲気違うよな。なんかこう、色っぽい感じがするっていうか」

「え…?」

予想だにしていなかった言葉にソプラノは目を丸くした。

――嘘……気付いてくれてたんだ…!

気付いてくれたということが何よりも嬉しかった。ちょっと恥ずかしかったけど、思い切ってこの格好にした甲斐があったというものだ。

「別に変な意味じゃないんだけどさ」

さすがのジュビアも家族同然の相手に面と向かって色っぽいなんて言ってしまったのが恥ずかしいのか、照れ隠しに笑っていた。

「どう、かな?」

「いいんじゃないか。なかなか似合ってると思う。でも、俺的には普段のソプラノの方が好きかな」

ジュビアははにかんだ笑顔を浮かべてそう言った。

「…そう?」

「ああ。なんか安心するんだよな。やっぱり長いこと一緒に暮らしてるからなのかな」

「そうかもね」

それを聞いた途端、ふっと笑みがこぼれた。いつの間にか自分がジュビアを安心させる存在になっていたんだと思うと妙に嬉しくなってしまった。

そんなソプラノを見ていたジュビアも優しく微笑んだ。

――これって…もしかしなくても、いい雰囲気かも。

二人の間に流れる空気が甘いムードを醸し出している…気がした。これならきっと…

「あ、あの、ね。ジュビアさん…」

意を決して声をかけた。

「ん。どうした?」

真っ直ぐにソプラノを見つめてくるジュビア。

その視線だけで恥ずかしくなって、うまく喋れなくなる。

「えと、その、あのね」

でも、言うと決めたのだ。こんな絶好のチャンスは二度と来ないかもしれない。ここで言わなければもうダメかもしれない。

――そんなのは嫌。だから…

この気持ちを伝えるのだ。ずっと大事に抱えてきたこの気持ちを。

「私、ジュビアさんのことが………好き」

消えそうな声でそう囁くのが精一杯だった。はたして聞こえたのかだろうか。ジュビアの表情を見ればきっとそれも分かったのだろう。だが今はジュビアの顔をまともに見ることはできない。ソプラノにできることは真っ赤な顔を隠すために俯いて、来るかもわからない答えを待つしかなかった。

「ありがとう」

「……え?」

その一言に一瞬、耳を疑った。今確かにジュビアは「ありがとう」と言った。

――それってつまり…!

恥ずかしさのあまり、頭がうまく働かない。だからちょっとした声のニュアンスの違いに気がつけなかった。

「ありがとう…でもごめん。今は返事できない」

「……………え?」

喜びが一転、頭の中が真っ白になっていく。何から考えればいいのかわからない。ジュビアは確かにありがとうと言った。そして、ごめんとも。

「それって…どういうこと、かな」

 今、ソプラノの頭の中を占めているのは何故という思いだけ。なぜ謝るのだろう。わからない。顔を上げ、すがる思いでジュビアを見つめた。

「ソプラノの気持ちは嬉しい…でも、今の俺じゃあ…それに答えられない」

ジュビアの真摯な瞳が真っ直ぐにソプラノを見つめていた。顔には出していないが言葉の節々に辛い気持ちがにじんでいる。

「昔の記憶のない今の俺が答えても、何もかも全部思い出した俺がそれと同じことが言えるのか…自信がないんだ。今の自分と昔の自分がもし違っていたらって思うと…不安なんだ」

俯きながら、曖昧な自分という存在を確かめるように両手を握り締めた。

「だから、待ってほしい。俺が今の俺を取るのか、それとも昔の俺を取るのか、その決心がついたらちゃんと答える」

それが今のジュビアに出せる精一杯の答えだった。

「それっていつ…?」

「分からない。でも必ず答える」

ジュビアの真摯な瞳がソプラノを見つめていた。

「…………わかった。ジュビアさんがそう言うなら」

「……ありがとう」

「私、ジュビアさんのこと信じてるから」

その後のことはあまりよく覚えていない。気が付いたら二人並んでアルトとの待ち合わせ場所に向かって路地を歩いているところだった。

微かに覚えているはあの喫茶店で食べた苺のケーキが甘酸っぱくておいしかったということくらいだった。